曹操 袁紹を打ち破って勢力を築くも、劉備に統一を阻まれた奸雄の生涯

【曹操の肖像画】

曹操は三国志において、群雄の中から頭角を現し、魏王になった人物です。

『三国志演義』においては悪役となっていますが、史実においては主役とも言える存在です。

生まれたのは155年で、あざなは孟徳といいます。

父親は曹すうといい、宦官かんがんの曹とうの養子でした。

宦官は去勢をしていて子供がつくれませんので、養子をとって家督を継がせたのでした。

曹嵩は太尉たいい(国防大臣)という高官の地位についたことがありますので、曹操は国家の中枢に地位を得た、実力のある家柄の生まれだったのだと言えます。

若い頃は官吏として働く

曹操は若い頃は、普通に官吏として働いていました。

洛陽らくよう北部尉という、首都北部の警察長官を皮切りに、県令や議郎(軍の統括官)といった地位についています。

その後、184年に黄巾の乱が発生したので、騎都尉きとい(近衛兵の指揮官)として反乱軍の討伐にあたり、戦功を立てました。

騎都尉は皇帝直属の騎兵を率いる立場でしたので、曹操が騎兵の指揮に長けていたことがわかります。

乱の鎮圧後、功績によって済南さいなんという国の大臣に昇格し、その地の統治にあたります。

曹操は政治家としては清廉な人物で、不正を働く役人を追放するなどして、統治の立て直しに邁進します。

しかしこの行いによって、賄賂をむさぼる宦官たちと、強く敵対することになります。

曹操が賄賂を贈る役人を追放したので、宦官たちは賄賂を受け取れなくなり、曹操を憎んだのです。

宦官たちは皇帝に取り入って権力を握っていましたので、曹操は親類に災いがおよぶことを怖れ、官職を辞して故郷に隠遁しました。

董卓と敵対する

その後、大将軍何進かしんに招かれて官職に復帰しますが、やがて何進は宦官たちに暗殺されてしまいます。

これは何進が宦官たちと敵対し、朝廷からの排除を計画していたからです。

すると何進に従っていた袁紹が、宦官たちに皆殺しにして復讐しました。

しかしそれで政情が収まることはなく、今度は涼州から登ってきた董卓が朝廷の実権を掌握します。

董卓は皇帝を勝手にすげ替えたり、都の近くで略奪をしたり、民衆を殺害するなどの暴政を働いたので、世がさらに乱れていきます。

曹操はそんな董卓には従わず、都を脱出して故郷に戻りました。

そして私財を投じて数千の兵を集め、董卓打倒の兵を挙げます。

やがて袁紹など、大陸東部の地方長官たちとともに、十数万の反董卓連合軍を結成しました。

しかしこれは烏合の衆であり、諸将は宴会を開いて酒浸りになるばかりで、積極的に董卓に攻撃をしかける者はいませんでした。

このため、曹操は単独で突出しますが、董卓配下の徐栄に大敗しました。

兗州を支配する

やがて191年になると、曹操は東郡太守となり、兵を集め直して再起します。

曹操が立て直しをはかっているうちに、えん刺史(長官)の劉たいが、黄巾賊の残党に殺害される事件が発生しました。

このために曹操は、かわって兗州刺史に任命されます。

そして黄巾賊を討伐して降伏させ、数十万の農民と兵士を手に入れました。

曹操は彼らに屯田をさせ、食糧を確保しつつ兵員を増強します。

また、この頃に荀彧じゅんいくら、優れた人材が曹操の元に集まり、勢力の基盤が確立されていきました。

呂布と兗州を争う

しかし、やがて参謀の陳宮が裏切り、最強武将として名高い呂布を兗州に引き入れたため、曹操は領地の大半を奪われました。

呂布は曹操と同じく騎兵の指揮に長けており、しかもこの方面では曹操よりも上でした。

このために曹操は苦戦しますが、計略を用いて戦い続け、二年をかけて呂布に勝利します。

そして呂布を徐州に追い出し、195年に兗州を奪還しました。

徐州で呂布を討つ

逃亡した呂布は、今度は劉備から徐州を奪ったので、やがて徐州をめぐる戦いが始まりました。

曹操は徐州に攻めこむと、呂布を水攻めによって追いつめ、捕らえて処刑します。

こうして呂布を撃破した曹操の武名は、大変に高まりました。

曹操は、この時代を代表する最強の武将の地位を得たのだと言えます。

劉備に離反される

曹操は徐州を攻撃していた時期に、劉備を配下におさめるのですが、曹操は彼に左将軍の地位を与えて厚遇しました。

そして英雄は自分と君だけだ、と言って称賛します。

しかし、やがて劉備は曹操の元から離れ、徐州を奪って独立しました。

これは劉備が、曹操は自分を使いこなせず、いずれ害をなすだろうと警戒したためでした。

このために曹操は劉備を討伐し、北の袁紹の元に敗走させています。

袁紹との対決

やがて曹操は、北方の四州を支配した袁紹と対立しました。

二人は、若い頃は友人関係にあり、同盟を結んでいましたが、朝廷の立て直しの方針についての意見が合わず、敵対するようになったのです。

曹操は兗州と徐州の二州のみを支配していましたので、袁紹の半分の勢力しかありませんでした。

しかし曹操は官渡の戦いにおいて、食料庫への奇襲作戦を成功させて袁紹軍を崩壊させ、逆転勝利を収めます。

その後、袁紹は間もなく病死し、子供たちが家督争いを始めたため、勢力が衰退しました。

曹操は彼らを討って北方を平定し、並ぶ者のいない大勢力を築き上げます。

こうして曹操は、天下統一を狙える立場を手に入れたのでした。

荊州討伐と赤壁の戦い

曹操は残る南方を攻略すべく、208年に荊州に攻めこみました。

すぐに支配者の劉そうが降伏してきたため、荊州は簡単に手に入るかに見えました。

しかし荊州には劉備がおり、曹操の支配権の確立に、待ったをかけました。

荊州南部に逃れた劉備は、呉の孫権と手を結んで対抗してきたため、長江沿いの赤壁の地で決戦が行われます。

ここで曹操は劉備・孫権連合軍に大敗します。

その上、陣中に疫病が蔓延したため、多くの将兵を失いました。

曹操軍の主力は騎兵でしたが、長江では水軍が有利に戦うことができます。

しかし北方の平原地帯で戦って来た曹操は、水軍の指揮は得意ではなく、このために敗れたのです。

この損害のために曹操は撤退せざるを得なくなり、南方の征服に失敗します。

西方の攻略

その後211年に、西方で馬超が10万の兵を集めて反乱を起こしたので、曹操はこれを討伐しました。

そして漢中を支配する張魯をも討伐し、西方に勢力を拡大します。

こうして再び曹操は覇道を歩み始めましたが、またしても妨げとなったのは、劉備でした。

劉備は赤壁の戦いでの勝利後、荊州南部を支配します。

ついで益州に進出して占拠し、曹操に対抗する姿勢を見せます。

漢中は益州北部にありますので、両者はここで国境を接することになったのでした。

魏王となる

曹操はかねてより、献帝を擁立し、朝廷の実権を掌握していました。

そして各地の討伐に成功し、朝廷内での地位を、どんどんと高めていきます。

216年になると、ついに魏王に就任し、後漢の内部に、半ば独立した王国を形成しました。

これによって曹操の権威は高まりましたが、後漢から帝位を簒奪するのではないかと、劉備らの警戒を招くことにもつながります。

漢中争奪戦に敗れる

劉備は219年に漢中に攻めこむと、曹操が守備に配置していた重臣の夏侯淵を討ち取り、漢中を奪取しました。

このため、曹操は漢中に攻めこみますが、堅固な要塞に籠もり、守りに徹した劉備を打ち破ることができず、大きな損害を出して撤退します。

これによって勢威が高まった劉備は、曹操に対抗するため、漢中王を自称しました。

このように、曹操は赤壁に続いて劉備に連敗し、それが原因で、天下統一を成し遂げることができなかったのでした。

全体で見れば、曹操の方が劉備を上回っていましたが、劉備は曹操の制覇を妨げる程度の実力は持っていたのでした。

関羽を撃退し、翌年死去する

こうして曹操が敗北したのを機に、荊州の南西部を治めていた関羽が、北上を開始しました。

そして荊州北部の曹操の領地が脅かされ、関羽の差し金によって各地で反乱が起きたため、曹操は遷都を考えるほどに悩まされます。

しかし曹操は司馬懿の策を採用し、孫権に関羽の背後から攻撃するように働きかけ、関羽を挟み撃ちにして撃退しました。

こうして何とか危機を退けた曹操は、翌220年に、病のために死去しています。

太祖武帝と呼ばれる

曹操の死後、後継者の曹丕が献帝から禅譲を受け、魏を建国しました。

このため、曹操は「太祖武帝」という号を追贈され、死後に皇帝扱いになっています。

曹操は生涯に渡って戦い続け、天下の大半を支配しましたが、劉備には勝ちきることができず、統一を逃しました。

三国志は、曹操と劉備のライバル対決の物語だったのだとも言えるでしょう。