黄忠 劉備に仕えて活躍し、定軍山で夏侯淵を討ち取った猛将

黄忠は三国志において、劉表や劉備に仕えて活躍した武将です。

劉備に仕えたのは赤壁の戦いの後でしたが、その時点ですでに老齢だったため、老将というイメージが強い人物です。

武将としては大変に勇猛果敢であり、短期間で一気に劉備軍の中枢へと登りつめていくことになります。

劉表に仕える

黄忠は荊州の南陽郡の出身でした。

あざな漢升かんしょうといいます。

戦乱の中で荊州を制した劉表に仕え、長沙郡の守備につきました。

長沙は東で呉と国境を接する地域ですので、黄忠はこの頃、孫策や孫権と戦っていたものと思われます。

この時は中郎将という、数千程度を率いる指揮官の地位でした。

曹操の配下になった後、劉備に仕える

その後、劉表が208年に死去すると、曹操が荊州に侵攻し、占拠します。

このために黄忠は曹操に臣従し、仮の将軍に任命されました。

そして長沙太守になった韓玄の部下となっています。

裨将軍は将軍の中では最下級の地位で、軍の副将といった格です。

このことから黄忠はこの時点では、さほど高く評価された武将ではなかったことがわかります。

やがて曹操が赤壁の戦いで劉備・孫権に敗れて撤退すると、長沙は劉備が奪取しました。

この時に黄忠は劉備に仕え、活躍の機会を得ることになります。

益州の攻略戦で大活躍する

やがて劉備は益州の劉璋に招かれ、そちらに遠征をしました。

この時に劉備は黄忠や魏延など、荊州で新たに得た武将たちを連れて出陣します。

そして劉備は、212年から益州の攻略戦を開始しましたが、この時に黄忠は先鋒を務めました。

すると黄忠は誰よりも早く敵軍に突撃をしかけます。

そして敵を次々と打ち破り、めざましい戦功を立てました。

「黄忠の勇敢さは全軍の筆頭である」として称賛されるほどで、それまで無名だったのに、いきなり目立つ存在となりました。

この活躍によって黄忠は討虜とうりょ将軍に昇格し、より多くの権限を与えられています。

漢中に攻めこむ

益州の大半を制した劉備は、219年になると、益州北部の漢中に攻めこみました。

この地は張魯が支配していましたが、215年に曹操によって奪取されています。

劉備はこの漢中を得ることで、曹操に圧迫をかけつつ、益州の守りを万全にする意図がありました。

黄忠はこの戦いに参加し、漢中を守る夏侯淵と対決します。

夏侯淵を討ち取る

劉備は定軍山で夏侯淵と対峙すると、夜になってからその陣営に火を放ち、奇襲をしかけました。

すると夏侯淵は陣営の南側を守りつつ、副将の張こうに陣営の東側を守らせます。

劉備はそれを見て張郃に猛攻をしかけ、その部隊を打ち破りました。

夏侯淵はこのため、自軍の半分を割いて張郃を救援します。

そうなると今度は、夏侯淵の部隊が手薄になりました。

劉備の軍師・法正は黄忠に、部隊が半分になった夏侯淵に猛攻をしかけ、打ち破るようにと命じます。

法正は黄忠の突進力であれば、夏侯淵を倒すことも可能だと、見込んだのでしょう。

黄忠はこれを受けて進撃し、ほこを突き立て、士卒を励まして夏侯淵に突撃をしかけます。

夏侯淵の率いる部隊は精強でしたが、数が半分になっていたため、黄忠の猛攻を支えきれずに壊滅しました。

そして黄忠はただ一度の攻撃で夏侯淵を討ち取り、大手柄を立てます。

夏侯淵は曹操が旗あげして以来の重臣でしたので、この敗戦は漢中の失陥と合わせて、曹操にとっては大きな打撃となりました。

後将軍に就任する

こうして漢中で大活躍した黄忠の武名はますます高まり、ついには関羽張飛、馬超と並ぶこう将軍の地位を与えられます。

ですが、関羽は荊州を守っており、黄忠の活躍を直に見ていないので、これに反発しました。

そして「老兵とは絶対に同列にならぬぞ!」と言って、前将軍への就任を拒否しています。

しかし劉備が送った使者に説得されて考えを改め、黄忠と同列になることを受け入れました。

ともあれ、こうして黄忠はおおよそ10年ほどで、劉備軍のトップクラスの武将へと立身したのでした。

翌年に亡くなる

しかし黄忠は、その翌220年に死去しています。

関羽から老兵呼ばわりされましたが、この時点で相当に高齢だったのでしょう。

劉備は黄忠に剛候というおくりなを追贈しています。

この名称からも、黄忠の精強さが伝わってくるようです。

なお、黄忠の子は早世していたため、後継者はいませんでした。

演義での活躍

黄忠は史書における記録が少ないため、三国志演義においては、いくつかのエピソードが追加されています。

長沙を守った際に関羽と互角に一騎打ちをしたり、弓の名手としての腕前を見せたりもしています。

そして益州を攻略した後には、同じく老齢であった厳顔とコンビを組んで活躍し、老将というイメージが強調されています。

そして夷陵いりょうの戦いにも参加し、呉軍に切り込みをかけて活躍しましたが、矢を射かけられて戦死したことになっています。

黄忠は老齢になってから本格的に活躍したことから、「老いてますます盛ん」と形容され、現代でも「老黄忠」と呼ばれて親しまれています。

黄忠評

三国志の著者・陳寿は「黄忠・趙雲がその果敢・勇猛さによって、ともに優れた武臣になったのは、灌嬰かんえい・夏侯えいのともがらであろうか」と評しています。

灌嬰・夏侯嬰はいずれも、前漢を建国した劉邦に仕え、活躍した武将です。

夏侯嬰は黄忠が討ち取った夏侯淵の先祖でもあります。

黄忠は劉邦の子孫である劉備に仕え、武力をもって活躍したので、このような評になったのでしょう。

劉備に仕えるまでは無名で、そのまま年を取っていましたが、勢力の拡大期に居合わせ、際だった武功を立てたことで、一躍有名な存在となりました。

思うに、劉表は荊州を守るばかりで積極的に他の地域を攻めませんでしたので、黄忠の勇猛さはなかなか発揮される機会がなかったのでしょう。

しかし劉備は益州を奪取し、曹操とも激しく戦ったため、黄忠はようやく才能を発揮できる場を得られたのでした。

自分に適した場がいつ得られるかは、なかなかわかるものではなく、ゆえにいざその時が訪れた際には、いかんなく力量を発揮できるよう、怠らずに準備をしておくことが大切なのかもしれません。