関羽は字を雲長といい、劉備に仕えて活躍した武将です。
美しい髭を生やし、人並み外れた武勇を備えていたことで知られています。
河東郡の出身で、生年は不明となっています。
関羽は何らかの事情によって、河東郡を出奔し、幽州の琢郡に移住しました。
このことが、関羽の運命を大きく変えることになります。
劉備や張飛と出会う
184年に黄巾の乱が起きると、琢郡で劉備が義勇兵を募集しました。
関羽はこれに応募し、生涯の主君となる劉備と出会います。
そして張飛も同じく応募していましたが、関羽の方が数才年長だったことから、兄として慕われました。
こうして劉備・関羽・張飛の三人が結集し、彼らはその名を歴史に刻むことになります。
劉備に従って出世する
はじめ、関羽と張飛は劉備の護衛官となり、身辺を守る役目を務めました。
そして劉備とともに、黄巾賊の討伐で活躍します。
劉備は功績によって官職を得て出世して行き、やがて数千の兵を率いるほどの立場を手に入れます。
すると劉備は、関羽と張飛を別部司馬(部隊長)に任命しました。
これは数百〜二千程度の兵を率いて戦う地位です。
劉備はそれまでの働きを見て、関羽と張飛は、指揮官としても活躍できる人材だと見込んだのでしょう。
そして劉備が徐州の統治者になると、関羽は下邳という重要な都市の太守(長官)にもなりました。
関羽は武勇の他に、統治者としての才能も備えており、算術が得意であるなど、多才な人物でした。
このために劉備から、各地の統治を任されることになります。
曹操の捕虜となる
やがて劉備は曹操と争って敗れ、徐州から逃亡します。
そして袁紹の元にたどり着き、その傘下に入りました。
関羽は引き続き下邳を守っていましたが、曹操に包囲され、降伏して捕虜となりました。
曹操は関羽の能力と、信義に厚い人柄を高く評価し、偏将軍に任命して、部下として取りこもうとします。
しかし関羽は劉備に生涯を通じて仕えると決めており、手柄を立てて曹操に恩を返したら、立ち去るつもりでいました。
顔良を討ち取る
曹操は、北方に大勢力を築いた袁紹と対立すると、白馬の陣地に攻撃を受けました。
すると曹操は、関羽と張遼を先鋒に任命し、これを迎撃します。
関羽は戦場で、袁紹軍の指揮官である顔良の旗印を見つけると、突撃をかけて敵をけちらし、顔良に迫ります。
そして敵のまっただ中で顔良を刺し、その首をとって引きあげました。
この離れ業によって袁紹軍は崩れ立ち、曹操は勝利を収めることができました。
際だった戦功によって、関羽は漢寿亭候という爵位を与えられています。
劉備の元に戻る
顔良の首を取り、曹操への恩を返した関羽は都を出奔し、劉備の元に帰還しました。
曹操の部下は、関羽を追跡して捕らえるべきではないかと進言しましたが、曹操は「彼は彼なりに主君に忠義を尽くしているのだ。そのまま行かせてやれ」と言って、関羽を送り出しています。
こうして忠義を貫いた関羽の名声はさらに高まり、後世からも称賛を受けることになります。
曹操の侵攻に抵抗する
その後、袁紹が敗れると、劉備は荊州の劉表を頼って落ちのびます。
そしてその地で勢力を築き、諸葛亮らの新しい人材と出会いました。
やがて208年に劉表が死去すると、曹操は荊州の討伐に乗り出しました。
このために劉備はさらに南に逃れ、江夏を拠点として兵を集合させます。
関羽はこの時、別動隊を率いて一足先に撤退していましたが、曹操に追撃されていた劉備と合流し、救援する功績を立てています。
やがて劉備は諸葛亮の策を用いて孫権と同盟を結び、曹操を赤壁で破りました。
そして荊州の南部を支配下に収めます。
荊州の総督になる
その後、劉備は益州を占拠するために遠征し、関羽と諸葛亮を荊州の守りとして残しました。
やがて益州の攻略戦が本格化すると、諸葛亮や張飛、趙雲といった武将たちが益州に移動し、主だった人物の中では、関羽ひとりが荊州に残ることになります。
関羽は荊州の総督に任命され、重責を担うことになりました。
これは関羽の武勇と名声、そして統治能力を、劉備が高く評価していたことの表れなのだと言えます。
孫権との争いが生じる
呉の孫権は、劉備が荊州南部を奪えたのは、自分が支援したことの影響が大きかったと考えていました。
このため、劉備が益州の奪取に成功すると、荊州を自分に譲るようにと要求します。
劉備はなだめてかわそうとしましたが、孫権は納得せず、荊州に兵を進めてきました。
このため、劉備は関羽を支援し、荊州を守るために出陣し、両軍が対峙する情勢となりました。
すると、曹操が益州北部の漢中に向かってきたという情報が届きます。
漢中が陥落すると、益州が危機に陥りますので、そちらに対応しなければならなくなった劉備は孫権と和睦し、荊州の南東部を譲ります。
こうして荊州は北に曹操が、南東に孫権が、南西に劉備が割拠する状況になります。
関羽はそのような難しい土地の統治と、そして隙をみて、曹操の領地に攻めこむ役割を担ったのでした。
劉備が漢中で曹操に勝利し、関羽は北上を開始する
劉備は219年になると、漢中に攻めこみ、この地を奪いとりました。
そして討伐にやってきた曹操を撃退し、大きな打撃を与えます。
関羽は曹操軍が疲弊したこの機会を活かすため、荊州の軍勢を率いて北上を開始しました。
そして曹操側の拠点である樊城を包囲すると、曹操は于禁を援軍として派遣してきます。
長雨によって于禁の陣が水没すると、関羽は襲撃して于禁を捕虜にし、将軍の龐徳を討ち取って勝利します。
こうして関羽は荊州の曹操軍を追いつめ、その勢威はおおいに高まりました。
この時、関羽の方が軍勢の数は少なかったのですが、にも関わらず勝利していることから、その武勇が非常に優れていたことがわかります。
荊州を孫権に奪われる
しかし一方で孫権は、荊州の劉備領の奪取を、虎視眈々と狙っていました。
関羽が出陣して防備が薄くなったところに、麋芳や傅士仁といった劉備軍の諸将に誘いをかけ、呉に寝返らせます。
関羽は部下には厚遇を与えて懐かせ、恩徳の行き届いた施政によって、民衆を治める力をもっていました。
しかし、格の近い武将たちに対しては傲慢な態度を見せることが多く、このために仲が悪くなっていたのです。
そして関羽が、協力しない彼らに対する不満を漏らしていたことから、関羽に処罰されるのではないかと恐れるようになっていました。
このような理由によって、麋芳と傅士仁は関羽を裏切ったのでした。
そして呉の荊州担当者である陸遜は、関羽を尊重する手紙を送って油断させた上で、商船に兵士を潜ませて荊州各地の城塞に入り込み、それらを占拠します。
こうして関羽は足下を崩され、樊城から撤退せざるを得なくなりました。
臨沮で捕縛され、処刑される
やがて、関羽や諸将の妻子が孫権に捕らわれたという情報が伝わると、軍勢が四散してしまい、関羽は危機に陥ります。
そして麦城に逃れた後、益州に撤退しようとしますが、臨沮で呉の潘璋に捕縛されてしまいます。
そこで関羽は息子の関平とともに処刑され、あえなく最期を迎えています。
勝利による絶頂期から、短期間で転落してしまったのでした。
こうして劉備は腹心と荊州を失い、曹操打倒の大望をくじかれることになります。
張飛と劉備も間もなく死去する
劉備は関羽の復讐と荊州の奪還のため、大軍を率いて遠征する計画を立てます。
しかしその出陣の直前、221年に張飛が部下に殺害されてしまいます。
張飛は関羽とは逆に、同僚たちとはうまくやっていましたが、部下に対しては厳しく、虐待をすることが多かったので、怨みを買っていたのです。
こうして関羽と張飛を失った劉備は、ひとり荊州に攻めこみますが、陸遜に大敗します。
そして撤退した先で重病にかかり、223年に死去しました。
関羽の死から連鎖して、張飛と劉備に死をもたらしたかのようでした。
こうして彼らは敗れましたが、漢王朝を復興するという大望は、諸葛亮に引き継がれることになります。
死後に神となる
関羽は死後に神として祭られ、「関帝」という名で呼ばれるようになりました。
日本にも、横浜の中華街に関帝廟があります。
関羽の武勇に優れ、義理堅い人柄は現代でも人気となっており、中国や台湾では、巨大な関羽像が設置されています。
関羽には算術が得意だったという伝承があるため、商業の神として祭られています。
関羽評
三国志の著者・陳寿は「関羽・張飛はいずれも一万人の敵を相手にできると男と称賛され、この時代の勇猛の臣であった。
関羽は曹操に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔を釈放し、ともに国士の風格があった。
しかし、関羽は剛情で自信を持ちすぎ、張飛は乱暴で情を持たず、その欠点のために身の破滅を招いたのは、道理からいって当然である」と評しています。
この指摘の通り、関羽は強いものの、他の将軍たちを束ねて用いるのは不得意で、そのために曹操と孫権に敗れました。
このあたりは関羽を補佐する人材を配置して、その欠点を補うべきだったのでしょうが、劉備陣営は人材の層が薄いため、それができず、敗れたのだとも言えます。