趙雲は字を子龍といい、劉備や劉禅に仕えた武将です。
冀州の常山郡の出身で、生年は不明となっています。
最初は劉備ではなく、幽州を支配した公孫瓚の配下でした。
趙雲は官民で構成した義勇軍を率い、冀州で袁紹と争っていた公孫瓚に味方した、と言われています。
劉備に仕えるようになる
劉備もまた、一時は公孫瓚の下についていたことがありました。
これは劉備が戦いに敗れ、公孫瓚の支援を求めたことがきっかけでした。
劉備はやがて、公孫瓚の重臣である田楷を支援するために、袁紹との戦いにおもむきました。
その際に趙雲は劉備に随行し、主騎(親衛隊)に就任しています。
以後は劉備に従い、各地を転戦しました。
長坂の戦いで劉備の妻子を救出する
劉備は変転の後、荊州の新野に駐屯し、曹操への備えを務めるようになります。
しかし、208年に荊州の主である劉表が病死すると、曹操が大軍を率いて乗り込んで来たため、南に撤退しようとします。
この際に、荊州の民10万が劉備についていきたいと申し出ました。
民を見捨てるのに忍びなかった劉備は3千の兵と、張飛と趙雲を手もとに残し、民の歩む速度に合わせてゆっくりと撤退します。
残りの部隊は関羽が預かり、船団を形成して河川経由で移動しました。
これを知った曹操は、5千の騎兵を率いて急行軍し、劉備を追撃して討ち取ろうとします。
このために劉備軍は混乱に陥って潰走し、劉備の妻子も戦場の中に取り残されました。
趙雲はこの時、敵をけちらして劉備の夫人を保護し、幼子を自分の身に抱いて守ります。
この子が後に、蜀漢の二代皇帝の劉禅となりました。
趙雲の働きによって劉備は妻子を救われましたが、この功績によって、趙雲は牙門将軍に昇進しています。
この場面は三国志の中でも有名な一幕で、京劇でも人気となっています。
益州制圧に参加する
その後、劉備は孫権と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操を撃退すると、荊州南部を支配下に収めます。
そして211年になると劉備は益州に移り、やがて劉璋からこの地を奪い取るための戦いを始めました。
趙雲は関羽や張飛、そして諸葛亮とともに荊州に残っていましたが、この戦いが始まると益州に呼ばれ、攻略戦に参加しています。
主将は諸葛亮で、彼は張飛と趙雲を率い、長江をさかのぼって西上すると、各地を平定しました。
やがて江州に到達すると、そこで趙雲は諸葛亮と別れ、別働隊を率いて江陽を攻略するように命じられます。
この役目を果たした趙雲は、益州の攻略が完了してから、翊軍将軍に昇進しました。
関羽たちよりは格が低かった
趙雲はこうして武功を立てましたが、演義での扱いとは違い、史実ではそこまで高く評価されていません。
219年に劉備は関羽・張飛・馬超・黄忠の四人に最も高い将軍位を与えましたが、趙雲はその下に置かれたままでした。
黄忠は趙雲よりもずっと後から劉備に仕えましたが、彼に追い抜かれてしまったことになります。
趙雲も強いものの、彼らに比べると武勇や指揮能力の面で、やや劣っていたのでしょう。
演義における「五虎大将軍のひとりに任命された」というのは創作で、事実ではありません。
関羽らの死後に地位が高まっていく
趙雲は劉備が亡くなり、劉禅が皇帝になった223年に征南将軍に昇進し、永昌亭候という爵位を与えられています。
この頃には関羽・張飛・馬超・黄忠の四人は、いずれも死去していました。
このために生き残った趙雲の立場が向上し、軍の重鎮として扱われるようになったのだと思われます。
趙雲はついで、鎮東将軍にもなりました。
いずれも、一方面を担当する重要な役割です。
北伐に参加するも、敗北して格下げとなる
やがて趙雲は、諸葛亮が行った北伐に参加します。
そして228年に別働隊を率い、箕谷で魏の曹真が率いる大軍と対決しました。
これは諸葛亮が祁山を攻撃するために行った陽動作戦であり、趙雲の率いる部隊は少数でした。
このために趙雲は敗北しますが、軍兵をとりまとめて守りを固めたため、大敗には至りませんでした。
この作戦は結局、馬謖の命令違反によって失敗に終わり、諸葛亮は責任を取って自らを三階級の降格処分とします。
これにともなって、趙雲も鎮軍将軍に格下げとなりました。
(禄を下げられただけだという説もあります)
趙雲には「不戒の失敗」があったと諸葛亮から指摘されています。
詳細は不明ですが、諸葛亮の裁定は常に公平なものでしたので、統率や指揮において、なんらかのミスがあったものと思われます。
死去する
趙雲は翌229年に死去していますので、死の直前まで戦陣にあったことになります。
やがて261年になると、順平候と諡されました。
この前年に関羽・張飛・黄忠・馬超・龐統に諡号が追贈されていましたが、これに続いての措置でした。
一年遅れたのは、やはり趙雲は劉備軍の中枢にいた人物たちと比べると、少し低い扱いだったからなのでしょう。
とはいえ、限られた将軍だけになされたことですので、名誉であったことに変わりはありません。
諡をされた理由には、皇帝である劉禅が幼少期に遭遇した危機を、忠誠を尽くして救ったことがあげられました。
やはりこのエピソードこそが、趙雲の生涯における、際だった功績だったのでした。
趙雲には趙統という子がおり、後を継ぎました。
そして虎賁中郎(近衛兵の隊長)にまで昇進しています。
次男の趙広は牙門将(大将軍の副将)となり、姜維に従って戦いましたが、沓中の戦いで戦死しています。
本当の姿が見えにくい武将
このように、史実での趙雲は劉禅を救ったこと以外には、際だった働きは見せていません。
劉備軍の一角を占める勇敢な武将だったことは確かですが、特別な存在ではなかったようです。
しかし『趙雲別伝』という書物では、趙雲が劉備に大事にされ、何かと賢明な助言をしていたことになっています。
その他にも、趙雲を称揚するようなエピソードがいくつも盛り込まれているのですが、趙雲の実際の立場の割には、活躍しすぎているという印象を受けます。
この『趙雲別伝』は趙家の家伝を改編したものだとも言われており、創作もまじっていると思われます。
これが後の史書などにも参照された結果、趙雲の実像は、わかりにくくなってしまいました。
趙雲の逸話
『漢晋春秋』という史書には、次のような挿話が載っています。
劉備は入蜀した後、趙雲を留営司馬に任命し、奥向きのことを取り締まらせることにしました。
当時、孫権の妹である孫夫人が劉備の元にいたのですが、彼女は兄の威光をかさにきて、驕慢なふるまいが目立っていました。
そして孫夫人は多くの呉の兵士を率いて、好き放題をやります。
このために劉備は、厳格な人柄の趙雲に、彼女の取り締まりをさせることにしたのです。
自分で孫夫人をしかりつけると、孫権との関係にひびが入りますので、気をつかったのでしょう。
劉備の気苦労と、趙雲の扱いがうかがい知れる挿話です。
やがて孫夫人は呉に戻ることになると、劉禅を連れて行き、蜀に対する人質にしようとしました。
すると趙雲は張飛とともに長江をさえぎって、劉禅を取り戻しています。
こうして趙雲は、劉禅を二度に渡って救いましたが、その後の蜀の末路を思うと、この行動が本当によいことだったのかは、議論の分かれるところでしょう。
趙雲評
三国志の著者・陳寿は黄忠と趙雲を並べて評しています。
「黄忠・趙雲がその勇猛さによって、ともに優れた武臣になったのは、灌嬰・夏侯嬰のともがらであろうか」
灌嬰・夏侯嬰はともに、前漢を建国した劉邦に仕えて活躍した武将です。
趙雲は厳格かつ重厚な人柄だったと言われており、武に秀でていました。
黄忠も義に厚く勇猛な武将でしたので、両者がこのように、並んで評されたのでしょう。