馬超は字を孟起といい、176年に誕生しました。
生まれたのは長安近くの、扶風郡茂陵県です。
父は馬騰といい、征西将軍の地位にあり、涼州に勢力を築いていました。
馬超はその長男で、父と同じく優れた武将としての才能を持っていました。
鍾繇の元で武功を立てる
父の馬騰は後漢末期の混乱の中で、都になった長安を襲撃するなど、朝廷に対して反抗的な態度を取っていました。
しかし曹操が西方の抑えとして鍾繇を派遣してくると、その説得を受けて従属します。
そして馬超に兵を与え、鍾繇に従わせました。
馬超はやがて、曹操と敵対する郭援との戦いにのぞみます。
馬超はその戦場で、太股に矢を受けて負傷してしまいました。
しかしそれにひるまず、袋で足を包むとそのまま戦い続けます。
その姿に鼓舞された馬超の部下・龐徳が郭援の首を取り、馬超軍は大きな手柄を立てました。
こうして馬超の勇名は、世に知られていくことになります。
父が都におもむき、馬超が軍を引き継ぐ
やがて父の馬騰は新たな都となった許都に召喚されると、それに応じて移住することにしました。
馬騰は年を取ったため、辺境で兵を率いるのはやめ、都で安全に暮らすことにしたのです。
そして馬超の弟である馬休と馬鉄らも都に移り、武官の地位を与えられました。
しかし馬超だけはそのまま涼州に残り、父の軍勢を率いることになります。
このために馬超は偏将軍に任命され、都亭候の爵位も得ました。
曹操への反乱を起こす
やがて211年になると、曹操は涼州の南にある漢中の討伐を計画します。
すると涼州の諸将たちは、曹操は自分たちを攻撃しようとしているのではないかと疑いました。
馬超はこの状況を利用して、韓遂や成宜、楊秋といった武将たちを味方につけ、10万の大軍を組織します。
そして反乱を起こし、黄河以西を支配しようともくろみました。
曹操はこれを受け、自ら大軍を率い、潼関で待ち構える馬超の討伐にむかいます。
こうして馬超は曹操と対決することになりました。
馬超は自らの武勇を頼みとし、曹操に従うことをよしとせず、独立を目指したのでした。
河沿いの防衛策をたてるも、韓遂が同意せず
馬超は、曹操は遠くからやってくるため、河沿いの守りを固めて進撃を防ぐ策を提案します。
そうして時間を稼げば、曹操は食糧不足に陥って撤退せざるを得なくなるだろうと予測したのです。
しかし同格の韓遂がこれに反対し、「河など渡らせてやれ」と答えたため、馬超の策は実行されませんでした。
この馬超の読みは当たっており、曹操は後でこの話を聞いて、「馬超の小僧めの息の根を止めなければ、わしは埋葬される土地もなくなってしまうだろう」と言って警戒しました。
馬超には的確に作戦を立てる能力があったのでした。
曹操を強襲する
諸将の賛同を得られなかった馬超は、曹操が船団をしたてて大河を渡ろうとすると、単独で騎兵を率いて襲撃し、矢を雨のように浴びせます。
すると曹操軍の兵士はばたばたと倒れ、曹操は船の中に退避せざるを得なくなりました。
この時に曹操の部下が機転をきかせ、保有していた牛を解き放って反乱軍の方に放ちます。
すると、それをつかまえようと兵士たちが勝手に動いてしまい、馬超は曹操にとどめをさすことができませんでした。
曹操は馬超の襲撃によって四、五里(1.6〜2km)ほど流されましたが、かろうじて渡河に成功します。
『三国志演義』では、馬超はすさまじい武勇を発揮し、単騎で猛追して曹操を追いつめましたが、許猪に阻まれて取り逃がしたことになっており、その勇猛さがより強調されています。
離間の策によって敗れる
その後は両軍の間で一進一退の攻防が繰り広げられますが、曹操は参謀の賈詡の策を用い、馬超と韓遂の仲を割くことにしました。
曹操は韓遂と単独で会談をして談笑をすると、その後であちこちを塗りつぶした書面を韓遂に送ります。
それを見た馬超は、韓遂は自分に隠して、曹操と秘密の交渉をしているのではないかと疑い、反乱軍は内部分裂を始めました。
すると曹操は軽騎兵に攻撃をしかけさせ、馬超たちがそれに対応する間に、左右から精鋭部隊に挟撃させます。
すると連携を欠くようになっていた反乱軍はそれを支えきれず、もろくも崩壊しました。
馬超も韓遂も涼州を目指して逃げ出し、反乱は失敗に終わっています。
父と弟たちが処刑される
こうして馬超を退けると、曹操は都にいた馬騰や馬休らを捕縛し、一族をことごとく処刑しました。
このため、馬超の血縁者二百人が死亡し、馬氏の勢力は大きく衰えます。
馬超は反乱を起こす際に、韓遂に対して「父のことは忘れ、あなたを親と思う」と宣言していたのですが、その言葉通り、家族を見捨てたことになり、評判が悪化します。
馬超は家族を捨てるほどの、ある意味で強さを見せたのですが、それは結局、馬超を弱らせることになりました。
涼州を支配しかけるも、再び失敗する
馬超は涼州に戻ると、異民族である羌族に呼びかけて、彼らを味方につけました。
馬超の祖父は羌族の娘と結婚しており、このため馬超は羌族の血を引いています。
そういった事情によって、馬超は異民族を味方につけやすいルーツを持っていたのです。
彼らの協力によって、馬超は涼州を奪取し、曹操が送り込んでいた刺史(長官)の韋康を殺害しました。
そして討伐にやってきた夏侯淵にも勝利し、再び勢威を取り戻します。
しかし、韋康の部下たちの計略にはめられ、だまされて出撃した際に、馬超は本拠をの冀城を奪われてしまいました。
このための馬超は、涼州からも逃げ出すことになります。
漢中に向かう
涼州を追われた馬超は、南の漢中に移動し、この地を支配する張魯に従います。
張魯は娘を馬超と結婚させようかと考えましたが、馬超が家族を見捨てた男であることを指摘し、反対する者がいたので、とりやめました。
「家族を愛することができない人間に、他人を愛することができるでしょうか?」というのがその者の意見でした。
馬超はその後、張魯に兵を借りて涼州を取り戻そうとしましたが、今度は夏侯淵に阻まれて失敗し、行き詰まります。
曹操と戦った時の馬超は強く、はつらつとしていましたが、以後はこうして、冴えない状況が続くことになりました。
こうして漢中にも居づらくなった馬超は、益州にやってきていた劉備と連絡を取り、自分を使うつもりがないかと持ちかけました。
劉備は馬超を歓迎する
劉備はこの頃、益州を支配する劉璋を攻撃し、この地を奪い撮ろうとしていました。
そして成都に劉璋を追いつめていたのですが、とどめを刺すために、威名がとどろく馬超を呼び寄せれば役に立つだろうと考えたのです。
劉備は「これでわしは益州を得たぞ」と喜んで、馬超に兵士を貸し与え、武将としての容儀を整えさせた上で、成都に来させました。
そして馬超がやってきたと知ると、劉璋はこれを大変に怖れ、劉備への降伏を決断します。
こうして馬超はその勇名の残り火のみで、大きな手柄を立てたのでした。
厚遇されるも、軍功はなかった
劉備はその後も馬超を厚遇し、関羽や張飛と並ぶ高い将軍位(左将軍)を与えます。
そして爵位も与え、軍のトップクラスの人材として扱いました。
しかし馬超は劉備に仕えて以後、これといった軍功は立てられませんでした。
それでも劉備は馬超への待遇を変えることはなく、221年には驃騎将軍に昇進させ、涼州の牧(長官)を兼務させました。
劉備はいずれ益州の北に隣接する涼州をも得ようと考えており、このために馬超の存在を必要としたのでした。
死去する
しかし馬超は翌222年に、47歳で死去してしまいます。
年齢からして、病死だったのだと思われます。
馬超は従兄弟の馬岱に馬家の頭領としての地位を継がせるよう、劉備に求めました。
自分の行いによって父や弟たちを死なせたことを後悔しており、せめて馬岱に一族の祭祀を守ることを期待したのでした。
劉備はこれを了承し、馬岱は後に将軍位や爵位を得ています。
なお、馬超には馬承という子供がおり、後を継いでいます。
そして娘が劉備の息子の劉理と結婚するなど、一族は馬超の死後も厚遇を受けています。
馬超評
三国志の著者・陳寿は「馬超は武力と勇猛を頼んで、その一族を滅亡に導いたのは、残念なことである。しかし窮地より抜け出して安泰を得たのは、まだよかったと言えるのではないか」と評しています。
この評の通り、馬超は自分の強さに自信を持ちすぎ、人とのつながりを軽んじる傾向にありました。
それが自身と一族に災いをもたらしましたが、心を入れ替えて劉備に従い、蜀で栄えることができたのは、そのままみじめに死ぬよりは、ずっとよかったと言えるでしょう。
張魯や劉備の下について以後は活躍できていませんが、馬超は独立していなければ力が発揮できないタイプの男で、それゆえに親兄弟を見捨ててまでしても、反乱を起こして独立を勝ち取りたかったのかもしれません。
しかし、家族の死後は弱体化していったところを見るに、家族や一族といった基盤を捨ててしまうと、長い目で見た場合、人は弱くなってしまうようです。